エゾノリュウキンカ  撮影 nakachan
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以前どこかで読んだ、夏目漱石 私の個人主義、←(長文ですが興味深いです)とは、漱石が学生向けに講演した際に、話された内容です。後半に語られています。漱石といえば明治の文豪、公費留学もし、神経衰弱、胃潰瘍、などに悩まされた方です。

この自己本位という考え方。自己中心的とも違いますが、これに気付いた時から、考えが変わり、生きやすくなったということです。悩める現代人たくさんおりますが、この考え、私も賛同します。
抜粋しますと、

今まではまったく他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめにただよっていたから、駄目であったということにようやく気がついたのです。私のここに他人本位とい睡蓮うのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似をさすのです。(~中略~)ましてやそのころは西洋人のいうことだといえば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々(どれもこれも)皆是なりといいたいくらいごろごろしていました。(~中略~) つまり鵜呑みといってもよし、また機械的の知識といってもよし、とうていわが所有とも血とも肉ともいわれない、よそよそしいものをわがもの顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。

(~中略~)私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってからたいへん強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。~その時私の不安はまったく消えました。私は軽快な心をもって陰鬱なロンドンを眺めたのです。

(~中略~)
しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向けいこうを尊重するのが理の当然になって来るでしょう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。(~中略~)今までの論旨ろんしをかいつまんでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂しとげようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それにともなう責任をおもんじなければならないという事。
(夏目漱石『私の個人主義』)

つくし自我の確立という言葉がありますが、ヒトは最初は、訳が分からず生きているので、だれかをお手本にしたり、、導いてくれる人に従ったり、本を読んだり、人からの評価や判断などがら考え進み、自分を作って行くと思うのですが、
たとえば 心はどこにあるか、、、という問に対して 茂木健一郎氏は、人と自分の間にある、、、人と関わっていくことで自分を感じる、作る。。姜尚中さんも、自我は人との関わりの中から作られていくと言っています。
話が広がってさらに面倒になりそうなのでこのあたりで止めますが、、人との関係で一般的に濃いのは家族関係ではないでしょうか。だから、親が子に与える、子が親に与える影響って大きいんですよ。そしてそれぞれに個性、自我がある訳で、、、
自己本位、理にかなった自己主張、、これ、分かるような気がします。そして自分のまわりの人達にも、それがあってそれを認める、、、ということでしょうか。。大いに悩んでそれぞれに感じる、、答はなかなか見つからないかもしれないけれど、、、
何かそういう事に気がつく時期ってありませんか?おおよそ人並み、いわゆるフツウに生きてきて、あるときからは人を参考にはできるけれど、情報はたくさんあるけれど、他人に振り回されることなく、やっぱり自分で決めなければならない、自分の感覚で、考えなければならない時が来ると思うんですが。。。私は、青年期には気付かず、ず~っと遅い時期に来たような気がします。いや、それとも、そんなに深く考え込まないで、ひたすら生きる、、でも良いのかな?漱石さんのように、いろんな知識や理解、経験により、考えるとそういう域に達するのかもしれません。、解ったようなこと書けませんが、、好き放題に書いてまた話がそれそうです。

只今姜尚中さんの著書何冊か読んでいます。漱石に詳しいです。それらについては、またの機会に。。

         記事中の写真 睡蓮 つくし 撮影nakachan
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